ハンサムだけでは成功しない・・・剛竜馬さん、安らかに

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プロレスラー、剛竜馬 さんが亡くなられた。
享年53歳。

誰にも看取られることなく、自宅アパートでの孤独死だったそうな。

正直言って、オイラ的には好きなレスラーではなかった。
恐らく 「柔軟性」 と言う形容詞にもっとも縁がないレスラーが 剛竜馬 だったのではなかろうか?
それほどまでに身体もオツムも 「固い」 イメージが強い選手だった。
ついでに言えば、肩をいからせた独特のファイティングポーズで構える姿勢がまたカッコ悪かった。

しかし、国際プロレス在籍時の若手時代は、文句なくハンサムレスラーのトップであった。

1970年に15歳で国際プロレスに入門、1973年に会社の期待を背負って海外武者修行出発。
カナダを始めドイツのハノーバートーナメント等にも出場するなどの実績を重ね、1976年に凱旋帰国。
帰国第一戦では中堅の 稲妻二郎 を相手に時間切れ引き分けの好勝負を展開。
中でも、当時、ホースト・ホフマン しか使い手がいなかった 高速サイド・スープレックス を、
日本人として初めてマスターしたことに対する評価が高かった。

ちなみにこの高速サイド・スープレックス、現在ではほとんど見られないワザだが、
よーするに自分に向かって突進してきた相手に対し、すれ違いざまに仕掛けるテクニックで、
タイミングだけを見れば ケブラドーラ・コン・ヒーロ とほとんど同じ。
今でいうところの パワースラム みたいなワザでありやした。

しかしながら、凱旋帰国後、大いに躍進が期待されていたにもかかわらず、なかなか会社からのプッシュは得られず、
海外での師匠である ヒロ・マツダ の助言 (実際は新日本からのオファーとも言われている) を受け、
国際プロレスを裏切る形で1978年に一方的にフリー宣言を行い、
当時、新日本で飛ぶ鳥を落とす勢いだったWWWFジュニアヘビー王者の 藤波辰巳 に挑戦。
日本プロレス界のジュニアヘビーの歴史に残る名勝負を展開する。

この試合は、25歳の藤波と22歳の剛の若者同士による次世代プロレスの幕開けのような内容で、
当時まだまだ神通力があったジャーマン・スープレックス・ホールドの掛け合いを繰り広げた。
恐らく 日本プロレス史上初の 「ジャーマンを巡る攻防」 を演出した試合 ではなかっただろうか。

ついでに言えば、当時の日本プロレス界でもっとも二枚目と言われていた2人による試合でもあり、
この試合をきっかけに、より多くの若い女性ファンを取り込もうとした目論見だってあったはず。
さらについでに、国際プロレスから日陰レスラーを引き抜いて新日本のエースの当て馬にする、
と言う 「仕掛け」 は1974年の ストロング小林 に続く2人目の事件でもあり、
そう言った意味では新日本に二匹目のドジョウを許してしまった、
国際プロレスのリスクマネジメントの杜撰さがもろに露呈された事件とも言える。

しかし、用済みとなれば冷徹に外様レスラーを切り捨てることで有名な新日本プロレスは、
藤波辰巳のライバルであるはずの剛竜馬をさっさと前座戦線に回してしまい、
その待遇の悪さに腹を立てた剛は、1984年に新日本を辞め第一次UWFに参加。

だがそれも長続きはせず、数か月だけ在籍した後、今度は全日本に移籍。
しかし、顔はハンサムであっても柔軟性のない身体、いかつくてダサいファイトスタイルが災いし、
いつまで経っても人気に火が点くことはなく、結局、全日本でも外様レスラーの宿命で整理解雇となる。

だが、一度大観衆の前で浴びたスポットライトの魅力を忘れることができず、
1989年、ついに日本初の、たった3人のレスラーによる新団体 「パイオニア戦志」 を設立。
これが現在の日本プロレス界に乱立する インディー団体の第一号 と言われている。
つまり、日本プロレス史に残る、禁断の パンドラの箱 を開けてしまったレスラーこそが、
誰あろう、剛竜馬 だったワケだ。

たった3人のレスラー、それも中堅以上のポジションを与えられたことのないショッパイ選手だけの団体など、
誰もが長続きするワケないと思っていたら、まさにその通りの結末を迎えてしまう。

しかし学習能力がないのか、剛はその後も何度となく同様の新団体を設立しては崩壊する、を繰り返し、
ついにはレスラー仲間からの信頼を完全に失ってしまうことになる。

晩年、「お笑い」 的な方向からプロレスバカのギミックが確立し、一瞬復活したかに思われたが、
やはり 「昔の栄光」 を忘れられない前時代的試合スタイルが若いファンに受けるはずもなく、
徐々にフェードアウトし、事実上の業界追放状態となってしまう。

ここ数年は住み込みで居酒屋の仕事に従事していたらしいが、
極度のアルコール依存で体調を壊し、とてもリングに上がれる状態ではなかったらしい。

未確認情報によると、死の直前、昔のレスラー仲間に電話をかけまくり、
ほんの一言でも懐かしい声を聞こうとした形跡があったらしいが、
誰ひとり、電話に出る者はいなかったとのこと。


晩年の暴露本やプロレス記者の昔話記事を拝見した限りの、
オイラが一人勝手に想像する剛竜馬と言うレスラーの人間像は次のようなイメージとなる。

・とにかく人懐っこい性格。
・一度信用した (気に入った) 人物に対して極度に親交を持ちたがる。
・あまりの親しげな態度に辟易して距離を置きたがる友人知人が数知れず。
・思考も言動も態度もすべてが 「天然」 であり、人付き合いや世渡りが下手。
・良く言えば 「自分に正直」 であり、悪く言えば救いようのない 「KY」 。

果たしてオイラが勝手に抱く、この剛竜馬の人間像がどこまで正しいかは定かでない。
また、故人の名誉を傷つけるような内容の記事であり、書いているオイラ自身、
あまりいい気持ちがするものでもないが、今回の悲劇から 「学ぶべきこと」 として、
次のことだけは自分自身、肝に銘ずべき格言 (?) として書き記しておきたい。

人間、去り際が肝心

そして、

第二の人生に歩き出す勇気を持つ

と言うこと。


人間、いくつになっても夢を忘れてはいけないとは思う反面、
昔の栄光を忘れられずに、あまりにも実現の可能性が低い夢をずるずると追い続けるのは、
正直言ってみっともない。
昔の栄光を捨て去り、第二の人生に歩き出す勇気を忘れてはいけない。

繰り返すが、故人の名誉を傷つけて申し訳ない気持ちはもちろん抱いているが、
残された 「昭和のプロレスファン」 が彼の死を無駄にしないためにも、
上記のことはしっかりと胸に刻みつけなければならない。

合掌。




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