大瀧師匠の回顧録

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先日、tennennobiさんからコメントいただいたとおり サウンド&レコーディングマガジン2008年4月号には、
ぬわんと 大瀧詠一、自らを語る Vol.1 が掲載されている。

ちなみにオイラは、高校時代に初めて はっぴいえんど を聴いて以来、大瀧師匠のファンとなり、
FMラジオ等で師匠のレコーディング遍歴を知るにつれ、多重録音への興味が湧き出し、
1982年に高校卒業後、就職して最初のボーナスでオープンリールの4トラMTRを購入、
そこから宅録人生がスタートし、現在に至っている。

はっぴいえんど は、日本のスタジオレコーディングの変革期を実体験した貴重な生き証人でもある。
つまり、
1stアルバム「はっぴいえんど/1970年」 4トラMTR
2ndアルバム「風街ろまん/1971年」 8トラMTR
(大滝ソロアルバム「大瀧詠一/1972年」 16トラMTR
3rdアルバム「Happyend/1973年」 16トラMTR
と、アルバムごとにMTRのトラック数が倍増していると言う、
まさにレコーディングテクノロジーの発達とともに歩んできたようなバンドであったワケだす。

オイラが初めて はっぴいえんど を聴いたのが、たしか1979年だったから、すでに解散から6年経過していて、
プロのレコーディング現場も16から24にMTRのトラック数も増加していった頃だったと思うので、
当時の流行歌のサウンドクオリティと聴き比べれば、
ハッキリ言って、はっぴいえんどサウンドはすでに 「時代遅れ」 でしかなかった。
にもかかわらず、4トラMTRでレコーディングされた 12月の雨の日サウンドの瑞々しいこと!

前にもブログったことがあっるが、オイラの宅録人生を決定付けた曲は、
間違いなくこの はっぴいえんど12月の雨の日 であり、
この曲を聴いてなかったら、オイラの音楽人生は違った方向に行っていたかもしれない。


それはさておき、大瀧師匠の回顧録によると、
少年時代はソニーのオープンリールのテレコ(もちろん民生機)を駆使して、
愛聴していた洋楽のカバーを一人で多重録音して遊んでいたとのこと。

その後、はっぴいえんど としてプロデビューするに当たり、
ファーストアルバムのレコーディング現場で生まれて初めて4トラMTRに触れ、
宅録少年の血が煮えたぎり、多重録音を駆使したレコーディングを行ったであろうことは想像に難くない。

とは言え、一介の新人バンドにレコーディング機器を自由に使わせるほど
当時のスタジオの技術者・録音職人は寛大でもやさしくもなかったようで、
1stアルバムの時は、かなり悲惨なコンディションのスタジオで、
たったの3~4日間でレコーディングを終了しなければならなかったらしい。

しかし、2ndアルバムでは8トラMTRをある程度自分たちの自由に使えるようになり、
さらに72年の自身のソロデビューアルバムでは
約1年の時間をかけてじ~っくりと納得いくまでレコーディングを行ったとのこと。

そのとき、レコーディングの基礎を大瀧師匠に教えてくれた方こそが、
後に日本のレコーディングエンジニアの重鎮となる 吉野金次 氏その人であったそうな。

もともとミュージシャン志向でもボーカリスト志向でもなく、プロデューサー志向 であった大瀧師匠は、
その頃から、かねてからの夢でもあったプライベートスタジオの建設に着手し、
1973年に念願叶い、FUSSA45スタジオ を築き上げた。

しかし、当時の16トラックMTRは個人が所有するにはあまりに高額であったため、
レコーディングスケジュールに合わせてレンタルするしか手段がなく、
一度レンタルしたら、寝る暇を惜しんでレコーディング作業を行っていたとのこと。
うーん、その様子が目に浮かぶようだ・・・

そんな矢先、レコード会社(コロンビア)から、
「ウチと契約すれば無償で16トラックMTRを買ってもいいよ」
と持ちかけられ、うれしさの余り後先を考えずにレーベル契約を結んでしまう。

結局、このときの過酷な契約内容(年に最低4枚の新譜を出すこと、等)が仇となり、
後年、福生スタジオは残念ながら閉鎖に追いやられてしまうことになるのだが、
もっとも勢いのあったスタジオ創設時代の作品群はどれもこれも怪盤・奇盤・珍盤だらけ!

まるで はっぴいえんど 時代の自分のキャリアを自己否定するかのように、
松本隆とは対極に位置する意味不明でギャグだらけの歌詞をちりばめ、
なんて歌っているかわからないような口ごもった歌唱方法に変更したり、
サックス×4本をフィーチャーした昔ながらのサザンロックなアレンジを施し、
恐らく日本で初めて本格的にニューオーリンズ・ビートを取り入れたり、
と、自身がプロデューサーであることを最大限に利用した、
正真正銘の「趣味趣味音楽 (シュミ・シュミ・ミュージック)」を展開していた。

ちなみに当時のアルバム、恐らく初期の2枚である Niagara Moon、GO!GO! Niagara は、
驚くなかれ ノーリバーブ でミックスされている!

なぜにノーリバーブだったのか? その答えは バーブマシンがなかったから、だって!

ハッキリ言ってオイラは、はっぴいえんど の陰鬱とした暗く湿った世界観が好きだったので、
ナイアガラレコーズのあっけらかんとした明るく乾いた世界観を許容する(?)には時間がかかりますた。

つーか、大瀧師匠にしてみれば、はっぴいえんど っぽい曲を作ればセールスは上がる、との勝算はあったと思われるが、
あえてその 「売れ線」 を選択せず、売れなくても自分のやりたいことをやってみて、
それでダメだったら、そのときまた考えればいいや、みたいな
行き当たりばったり人生が垣間見える気がしますな。


そんなワケで、趣味趣味音楽を貫いて貧乏の辛酸を舐めた(?)師匠は、
いよいよ 「売れるアルバム」 を作ることに本腰を入れることになる。

はっぴいえんど 時代の盟友である、細野晴臣鈴木茂松本隆との邂逅を果たし、
ナイアガラレコーズのスタジオミュージシャンたちにも協力を仰ぎ、
師匠のコネクションを最大限に生かしたレコーディングを敢行し、
そして完成したのが日本レコード界不朽の名作となる A LONG VACATION

このアルバムではナイアガラ時代とは見違えるようなグショグショリバーブを噛まし、
松本隆のトレンディーでナイーヴでパステルな歌詞を洋楽のオイシイトコ取りの主旋律に乗せ、
ちゃんと歌詞が聞き取れる歌唱方法で歌い上げている。

さらにこのアルバムのもっともゴイスなところは、大瀧師匠の代名詞ともなる
FALL OF SOUND を確立したことに尽きるっ!

スタジオミュージシャン30~50名を一堂に介し、一切のドンカマ(クリック音)を使わず、
せーので一発レコーディングを行うと言う、60年代にアメリカで一世風靡した
フィル・スペクターウォール・オブ・サウンド を80年代の日本で再現したことがゴイス!

同じ楽器、同じフレーズを複数のプレーヤーがユニゾンで演奏することにより音に厚みを出す、
と言う、あまりに原始的で誰でも考えつきそうな、でも誰もやらなかったセッションを敢行し、
その上に大瀧師匠が一人多重コーラスをオーバーダブし、最後にリードボーカルを収録。

さらに言えば、硬球をバットで打った音を録音、加工を施して独特のSEを作り、
それをオケヒット(注:この時点でサンプラーは一般化していない)のように使ったりと、
初挑戦ながら、それまでの試行錯誤の経験から絶対の確信をもって数々の「初モノ」を取り入れたセンスが、
プロデューサー・大瀧詠一の真骨頂であったように思えまふ。

・・・とまあ、興奮のあまり、とりとめもなく書きなぐってしまったが、
そんなワケでオイラは 福生の仙人」 こと 大瀧師匠に多大なる影響を受けてしまったため、
師匠同様、いつしかミュージシャン志望からプロデューサー志望に意識が変革してきたような気がする。
おかげで未だに何ひとつの楽器も極めることができない体たらくだす。


例によってブログに上手くオチをつけることが困難になってきたが、
少しでも大瀧伝説に興味がおありの方は、ぜひサンレコ4月号の購読をオススメする。
たった5ページの記事ではあるが、かなり読み応えはありまっせ!

・・・と言うオチでどーよ? (唐突なシメでスマン)



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  ▼ 4月定例やまぼうしライブ
   日時 : 4月11日(金)19時30分~21時00分
   会場 : コーヒー&ギャラリー「やまぼうし」
   料金 : @500円(ワンドリンク付き)
   出演 : 優雅に、繊細に、しなやかに、アコギ職人・ダブル丸山の調べ
        19時30分~ 丸山太郎
        20時15分~ 丸山研二郎
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