これがオイラのステージ倫理観

オイラはいわゆる 「猪木信者」 である。
筋金入りのプロレス・格闘技ヲタクである。
それゆえレスラー及び格闘技者にとって
「リング」「道場」 がいかに神聖なものであるかをそれなりに理解しているという自負がある。

たとえば、新日本プロレスの東京ドーム大会の休憩時間に
エキジビジョンとして女性ロックバンドがリング上で演奏したとき、
5万人の観客がブーイングを浴びせた心理もよくわかる。

その昔、猪木の著書 「燃えよ闘魂」 に書かれていた次の一文こそが、
その後、プロレス・格闘技を志す者の倫理となったであろうことは間違いない。

「おまえたち(修行中の若手選手)は
普通の人間には真似のできない厳しいトレーニングを耐え抜いてきたエリートだ。 胸をはれ!」



それゆえ、後年、大仁田厚 がFMWを旗揚げし、
シロウト同然の選手をリングに上げたときの猪木信者の反発たるや凄まじいものがあった。

今にして思えば、あの時FMWでデビューした新人レスラーにも
「オレごときのシロウトが神聖なリングに上がってもいいのか?」
と言う葛藤があったはずで、彼らを非難するのはちょっち筋違いかな?とも思う。

大仁田厚の功績を認めないワケではないが、
やはりシロウトを神聖なるリングに上げてしまった罪は大きい。

彼が開けてしまったパンドラの箱が現在のプロレス界にどんな影響を与えてしまったのか、
関係ないとは言わせない。


と言うワケで、オイラの倫理観の中には、

「リングに立つ者は選ばれし人間でなければならない。
シロウト同然の選手をリングに立たせるのは観客に対して失礼だ。」


と言う概念が確立されている。


そしてオイラのこの想い(倫理観)はオンガクの世界にも共通している。

初めて生で 山下達郎 のボーカルを聴いたとき、その想いは確信となった。

「プロのボーカリストは歌が上手いのが当たり前」

「プロのミュージシャンは楽器が上手いのが当たり前」


つーか、それはステージに立つ人間の最低条件なのだ、と今さらのように思った。

つまり、プロミュージシャンであればアマチュアに真似できないような芸を披露するのが当たり前、
と言うこと。これが第一。

第二は、シロウトをステージに上げてはいけない、と言うこと。

どんなに可愛くて魅力的でそこそこ歌が上手な女の子がいたして、
もし彼女がカラオケの延長線の感覚でプロのステージに立ちたいと希望したとしたら、
それは断じて拒絶すべきである。

プロのステージに立つべき人間とは、オンガクが好きで好きでどうしようもなく、
その想いのありったけで練習・修行を重ね、
その結果、常人には真似のできない 「芸」 を習得した者でなければならない、
と言うのがオイラの持論であり倫理だ。

ダサいと言われようが、古臭いと思われようが、こればっかりは変えようがない。


さらに言えば、そういう 「芸」 を習得していないオレ自身は、
当然、ステージに立つべき人間ではない。

それでも自分のパフォーマンスを見て欲しい、聴いて欲しいという「表現欲」を抑え切れず、
年に数回は生き恥を晒しながら、自分自身もアマチュアのステージに立たせていただいている。

ま、そんなワケなんで、ステージに上がれることの喜び、責任感は常に感じているとです。

つーか、たとえ自分がステージに立てなくとも、何かしらオンガクに関わっていたい、
と言う一心から裏方(PA等)として現在もオンガクに携わっている、
ってえのが正直なところだったりする。


それゆえ、大した芸もなくステージ上でふんぞり返っているヤツ、
シロウトに毛が生えた程度の自称「アーティスト」などを見ると嫌悪感を抱いてしまう。

神聖なるライブステージをカラオケ宴会場にしてはならない。

そんなの単なるお前ひとりの感想だろう! と言われれば、まさにそのとおり。
ハッキリ言ってフロントに立ちたいのに実力が伴わないオレの単なる妬みだ。
だが自然とそう感じてしまうのだから、これこそがオレの真実。


幸いにもオイラの回りは、オンガクが好きで好きでどうしようもない方たちで溢れている。
オイラはオンガクバカのために、ひいては自分自身が自分の好きなオンガクを聴くために、
PA屋を続けて行きたい。

だからオイラはいつまで経ってもアマチュアなのだ。




■-■-■-■-■-■-■-■-■-■-■-■-■

  ▼ Recording Studio GARAGE MIHO(本館)はこちら
   http://www.geocities.jp/garage_miho

■-■-■-■-■-■-■-■-■-■-■-■-■